メキシコ盆地


●メキシコ盆地
 メキシコ盆地は、中央に湖を有し、その面積は7,856Km2である。盆地の東側にはネバダ山脈、西側にはラス・クルセス山脈、南側にはアフスコ山脈があり、盆地の標高は、約2,235mである(Sarmient, G. 2000)。
 盆地の中央にある湖は、700Km2の面積で、北側はスムパンゴ(Zumpango)湖、シャルトカン(Xaltocan)湖、中央はテスココ(Texcoco)湖、南側はショチミルコ(Xochimilco)湖、チャルコ (Chalco)湖と呼ばれている。湖の中央から北部にかけては塩水湖であり、南側は淡水湖である。湖の深さは、1m〜3m程で浅い(Sanders et al 1979)。
 湖は16世紀以後埋め立てや湖水の低下がおこり、今日ではごくわずかな部分が残っているに過ぎない。図1-1-1は、アステカ時代のメキシコ盆地の様子である。テスココ湖の中にある島がアステカの都のテノチティトランで今日のメキシコ・シティの中心部でもある。
 テオティワカンは、メキシコ盆地の北側、ゴルド山(Cerro Gordo)とパトラチケ山(Cerro Patlachique)に囲まれた地域にある。降水量は、南部の方が北部より多い(テオティワカンの概観→新大陸考古学講座(第3回、1P)を参照)。
図1-1-1


●メキシコ盆地における文化変化
 メソアメリカ全体の時代区分に関しては、メソアメリカの時代区分(新大陸考古学講座(第1回、2P))を参照。
 メキシコ盆地におけるテオティワカン建設以前の状況を見てみよう。
B.C.1300-B.C.1200頃(先古典期前期):
 B.C.1300年頃、テスココ湖の西側のトラティルコ遺跡は、0.65Km2に広がる非常に大きな村落であった。トラティルコでは少なくとも340体以上の埋葬骨が発見され、それらの人骨には土器や土偶などの多くの副葬品が伴っていた。これらの土器や土偶はメキシコ湾岸のオルメカ文化の土器と非常に類似していた。おそらくこの村人たちは、オルメカの信仰を広める<宣教師>の強い影響のもとで恵まれた地位にあったと考えられている。
B.C.1200-B.C.400頃(先古典期中期):
 先古典期中期の村々は、湖の岸辺にあった。テスココ湖の西岸にあるエル・アルボリージョ(El Alborillo)遺跡の第1期(最下層)の村落は、湖岸の砂の上に直接建てられていた。7mに及ぶ貝塚はこの遺跡に何世紀にも渡って人が住んでいたことを表している。
 同様にサカテンコ(Zacatenco)遺跡もテスココ湖の西岸にあった(図1-1-1参照)。彼らは、農耕民であったが、貝塚から大量に見つかる動物の骨をみると狩猟もまた重要な食料源であったことがわかる。また、テスココ湖は塩水湖であったため、湖水を使った製塩もまた重要な位置をしめていたと考えられている。
B.C.400-A.D.150頃(先古典期後期):
 メキシコ盆地の文化は、B.C.400-A.D.150の期間独自の道をたどりつづけ、他の地域から孤立していた。また、この時期に神殿ピラミッドが出現する。メキシコ盆地の南部にあるクイクイルコ(Cuicuilco)遺跡では、直径118m、高さ23 mの4層の円形ピラミッドが作られた。先古典期後期のメキシコ盆地の文化の中心は、メキシコ盆地の南部地域であり、この地域にはショチミルコ湖やチャルコ湖の淡水湖がある。おそらく、当時の人々は淡水湖の浅い部分や沼沢地を利用して作った人工の島状農耕地(湖水の土を盛り上げて畑をつくった)である“チナンパ” を開発したと考えられている。
 クイクイルコを含むメキシコ盆地南部地域は、ヒトレ火山の噴火により紀元前後に滅亡する。以後、文化の中心はメキシコ盆地の北側のテオティワカンへと移る。
 テオティワカンの発展に関しては、テオティワカンの各時期の特徴(新大陸考古学講座(第3回、1P))を参照。
図1-1-2


●クイクイルコの悲劇
 クイクイルコは、メキシコ盆地の南西に位置するヒトレ(Xitle)火山の噴火により滅亡した。火山の噴火により、まず大量の火山灰がこの地に降り注ぎ、その後大爆発により溶岩がメキシコ盆地の南部地域に流れ出しこの地を覆った。住民たちはこの最後の大変動を予測していた可能性がある。彼らの残した遺物の中には、「火の神、火山の神」であったシウテクウトリ(Xiuhtecuhtli)の形をした香炉が多く見つかっている。
 図1-1-3:右側はクイクイルコを覆った溶岩、左側は円形ピラミッドの裾の部分。

図1-1-3