文明の起源
●オルメカ文化 | |
紀元前2000年を過ぎると農耕が安定した経済基盤となり、人々は定住的な村落を形成するようななった。そして、この農耕社会から大規模で複雑な構造をもつ階層社会が生まれ、文明が形成されるようになる。この過程で重要な役割を演じたのが、祭祀センターであったといわれる。 祭祀センターには、巨大な公共建造物が見られるが、これらの建造物を建築するためには、あるいは社会的事業を起こすためには、ある種の強力な宗教に対する信仰が起こらなければ成らない。 この現象は、新大陸では紀元前1200から1000年の間に発生した。メソアメリカではオルメカ文化、アンデスではチャビン文化である。 オルメカ文化の特徴は、芸術様式にある。特に石彫にみられる人間とジャガーを組み合わせた「ジャガー=人間」、ネグロイドの形質的特長をもつ巨石人頭像、土器の文様などに見られるジャガーの要素等が特徴的である。 |
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サン・ロレンソ遺跡 メキシコ湾岸の低地に居住を定めた人たちは、紀元前1200年〜紀元前 900年にかけて、今日のベラクルス州のコアツァルコアルコス市の南側、チキーと川の岸辺の大地に社会統合の中心地としての聖なる空間を作った。この大地には大小の土を持った基壇が南北を軸にして築かれた。そこからは、高さ 3m、重さ20トンもの玄武岩を加工した巨石人頭像や祭壇などが発見された。 |
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ラ・ベンタ遺跡 紀元前900年ごろサン・ロレンソ遺跡は衰退し、オルメカ文化の中心地はメキシコ湾岸のタバスコ州のラ・ベンタに移る。この遺跡は、高さ36m の土で作った神殿ピラミッド、それに隣接する広場、小型の基壇等が南北の軸上に並んでいる。この遺跡からは、サン・ロレンソ遺跡同様に玄武岩製の巨石人頭像(写真1、参照)や「ジャガー=人間」を刻んだ石彫や玄武岩の柱で作られた墳墓などが見つかっている。ラ・ベンタは紀元前400年ごろ衰退する |
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オルメカ文化の影響 ラ・ベンタが栄えていたころ、オルメカ様式が各地に広まる。メキシコ盆地ではトラティルコ遺跡でオルメカ様式の土器が多く出土する。またオアハカではモンテ・アルバン遺跡で宗教的な建造物が作られる。メキシコ湾岸のトレス・サポテスやチアパスからグアテマラ太平洋岸ではセ石彫や点と棒による年号が刻まれた石碑などが見られる。 また、南側ではホンデュラスのコパン遺跡やカリブ海側のクヤメル遺跡などでもオルメカ様式の土器が出土する。ホンデュラス出土の土器は、ラ・ベンタよりは古いサン・ロレンソの土器に類似している。 |
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写真1:オルメカの石彫 ラ・ベンタ出土の巨石人頭。 唇が厚く、頭にはヘッド・ギヤをつけている。 玄武岩製、高さ約2m |
●メソアメリカにおける土器の起源 | |
最古の土器群 土器と石臼を持った定住村落が各地に形成されるのは紀元前2000年ごろである。この時期の遺跡については、メキシコ中央高地(テワカン盆地)、南部のオアハカ盆地などで報告されている。 メソアメリカでは、トウモロコシはトルティージャ(トウモロコシのパン)の形で食される。従って、穂からはずしたトウモロコシの粒をゆでて、石臼でひいて練り粉として、これから薄焼きのパンを作る。そのためには煮沸用の土器と石臼が必要とされている。 |
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最古の土器群の土器の形はテコマテという無頚壺と平底の鉢である。表面の色は黒と赤があり、文様には細かい刻線で幾何学文様が描かれた。土器がいつメソアメリカで発明されたかについては、さまざまな議論がある。メソアメリカの土器は洗練された形で出現することから、より古い時期の土器がある南米から伝播したのではないかと考える研究者もいる。 | |
土器の使用によりトウモロコシ、カボチャ、マメなどが食料としての有用性を大幅に高めたと考えられている。これらの食物は煮ることにより幼児にも食べやすくなり、また成人の寿命も延び、それにより人口の増加、集落の拡大、農地の拡大等の現象が加速された。 | |
●オルメカの土器 | |
サン・ロレンソ遺跡では、最初の土器はオホチ期(1500-1350B.C.)に出現する。この時期の土器ではテコマテや鉢を主体とした土器でメソアメリカの初期の土器に類似し、オルメカ的な美術様式はまだ見られない。 次のバヒオ期(1350-1250B.C)やチチャーラス期(1250-1150B.C.)には、石彫などのオルメカ美術の出現とともに典型的なオルメカ的土器が作られる。特に、カオリン土を使った白色形の長頚壺やカボチャを模した壺などはホンデュラスで出土する土器に類似している。 サン・ロレンソ期(1150-900B.C.)には、最盛期を迎え刻線でジャガーの属性を刻んだ土器や研磨された黒色や赤色の土器など精巧な土器が多く作られる。 |
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鐙型土器 オルメカ文化には数は少ないが、このユニークな形の鐙型土器が存在する(写真2、参照)。鐙型土器は、後述するアンデスのチャビン文化に特徴的な土器であり、両文化の関連性を探る上で重要な土器と考えられる。 |
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名前の由来 「鐙」とは、馬具の一種で鞍(くら)に付属し、馬体の左右の外側につるされ、馬に乗り降りするときや乗馬中に騎手の足の重みを支え、馬上での騎手の動きを容易にするものである。土器の形が馬具の鐙に類似することから鐙型土器と呼ばれるようになった。 |
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写真2:オルメカの鐙(あぶみ)型土器 |
●チャビン文化 | |
紀元前1500年頃、ペルーを中心とした中央アンデスでは、農耕、採集、狩猟、漁猟などを組み合わせた生業を行う定住村落が成立していた。 紀元前1000年ごろ、ジャガー、ワシ、ヘビやそれらの属性をシンボル化したチャビン様式が建築、土器、石製品、織物、金細工などに見られ、この様式が各地に広まった。土器では、表面がよく研磨された黒色、赤色の長頚壺や鉢、鐙型土器などが作られた(写真ン3、参照)。 チャビン・デ・ワンタル遺跡は、ペルー北高地の標高3000mの山間の谷間にある遺跡で中に多くの部屋と回廊をもつ神殿、ジャガーや人物の像が浮き彫りにされた石版をもつ円形広場などがある。アンデスのでは神殿を作る伝統は古くから存在し、コトシュ遺跡では土器が出現する以前にすでに神殿建築が行われていた。 |
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最古の土器群の土器の形はテコマテという無頚壺と平底の鉢である。表面の色は黒と赤があり、文様には細かい刻線で幾何学文様が描かれた。土器がいつメソアメリカで発明されたかについては、さまざまな議論がある。メソアメリカの土器は洗練された形で出現することから、より古い時期の土器がある南米から伝播したのではないかと考える研究者もいる。 | |
土器の使用によりトウモロコシ、カボチャ、マメなどが食料としての有用性を大幅に高めたと考えられている。これらの食物は煮ることにより幼児にも食べやすくなり、また成人の寿命も延び、それにより人口の増加、集落の拡大、農地の拡大等の現象が加速された。 | |
●オルメカ文化とチャビン文化の比較 | |
メソアメリカとアンデスでは、紀元前1000頃オルメカ文化とチャビン文化と呼ばれる2つの類似した要素を持つ文化が成立した。ここでは、これらの2つの文化を比較する。 | |
物質文化の比較 1)建築様式 オルメカ:土で作られた神殿基壇、広場をもつ建築群、円形広場は無い。 チャビン:石や日干し煉瓦(アドベ)の神殿、広場を持つ建築群、円形広場がある 2)土器 オルメカ:表面が研磨された精巧な土器、鐙型土器 チャビン:表面が研磨された精巧な土器、鐙型土器 3)その他 オルメカ:ヒスイを重視 チャビン:金を重視 |
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精神文化の比較 1)ジャガー信仰 オルメカ:ジャガー人間の存在 チャビン:ジャガー人間の存在 2)地下世界の重視 オルメカ:洞窟を描いた石彫(洞窟から生まれる人間) チャビン:ランソンの石碑(ランソンは地下(神殿の回廊の中)に設置され上目使いであったの で、その場所が地下と地上の交流の場所であったのではないかと考えられている) |
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