テオティワカン遺跡の概観


●メソアメリカ最大の古代都市テオティワカン
 メキシコ中央高原のテオティワカンは、メキシコ・シティの北東約60kmに位置し、標高約2200mの高地にある。紀元前150年ごろから人間の居住か始まり、紀元前後から大都市として発展し始めた。その後、メキシコ湾岸、オアハカ盆地、マヤ低地にまで影響力を及ぼした。テオティワカンは、メソアメリカを代表する文明であり、メソアメリカ最大の古代都市でもあった(図3-1-1)。
図3-1-1
図版出所
大貫 1993



●時期区分について
 テオティワカンの時期区分に関しては、次の表で示すようにミューラーの時期区分(Muller 1978)、ラットレイの時期区分(Rattray 1981)、スミスの時期区分 (Smith 1987)があるが、現在はラットレイの時期区分及びそれに対応する絶対年代が一般的に使用されている(図3-1-2)。特に、パトラチケ期の年代については、サンダース等は300-150B.C.に設定したが、その後ミリョン等によって150-1B.C.に修正された。
図3-1-2



●それぞれの時期の特徴
 パトラチケ期(B.C.150-B.C.1)
  テオティワカンの北西部に位置するトラチノルパン遺跡やテオティワカンの中心部からもパトラ
 チケ期に属する土器が出土する。都市はまだ築かれず、小集落が点在していた。居住地域は
 6平方キロメートル、人口約5000人と推定されている。
  この時期、メキシコ盆地の南部では、クイクイルコが全盛期を迎えていた。高さ20m、直径80
 mに及ぶピラミッドは、メソアメリカでは珍しい円形の形をしている。しかし、紀元前100年ごろ
 にシトレ火山が噴火すると、クイクイルコは、溶岩で覆われ没落する。
 サクワリ期(A.D.1-150年)
  都市の設計が行なわれ、「月のピラミッド」、「死者の通り」、「太陽のピラミッド」が作られる(図3-1-3)。都市の南北の中心軸は、真北を向いているのではなく、15度25分東にずれていて、「死者の通り」から「月のピラミッド」を見ると、その背後にセロ・ゴルドと呼ばれる山が重なる。テオティワカンの場合は、人が徐々に集まって都市が形成されたのではなく、当初から都市設計が行なわれ、短期間に都市が形成された。都市は17平方キロメートルに拡大し、人口は約30,000人と推定されている。
 ミカオトリ期(150-200年)
  「死者の通り」の南側にシウダデラ(スペイン語で「城砦」の意味)と呼ばれる四方に基壇をめ
 ぐらせ、その上にいくつもの建造物を作った区画が作られる。「死者の通り」に直行する東西の
 通りはシウダデラから東西に伸びる。およそ200m四方の区画の中に「ケツァルコアトルの神
 殿」(羽毛のヘビの神殿)が作られた(図3-1-3)。都市は、22.5平方キロメートに拡大し、人口
 は約45,000人と推定されている。
 トラミミロルパ期(200-450年)
  トラミミロルパの前期(200-300年)には、「ケツァルコアトルの神殿」の正面にアドサダと呼ば
 れる大型の付属基壇が作られ、神殿の正面は覆われる。シウダデラの複合建造物も完成し、
 また「月のピラミッド」も今日見られるような形になり、約3世紀に及んだ強大な建造物の建造は
 終わる。この時期の終わりごろには、都市の人口は、65,000人と推定されている。
 ショラルパン期(450-650年)
  テオティワカンの最盛期であり、その影響はメキシコ湾岸地域、オアハカ地域、マヤ地域と各
 地に及び(図3-1-1)、これらの地域から来た移民もテオティワカンに住んだ。巨大な建造物の
 建築活動は、見られないがテティトラ、ヤヤウァラ、サクアラ等のアパート建築群が作られ、都
 市の大部分の人々はこれらの集合住宅に住んでいた(図3-1-3)。都市の人口は、 85,000人
 と推定されている。
 メテペック期(650-750年)
  西暦600年ごろから、テオティワカンは衰退し始め、750年ごろまでに崩壊する。都市の中心
 部では、多くの火災の痕跡があった。この火災の痕跡は、外部からの異民族の侵入によるも
 のか、それとも内部の組織的な反乱の末に起こった公共建造物への放火なのか現段階では
 明確ではない。人口もメテペック期の終わりごろには、5,000人ほどに減少したと考えられてい
 る。
図3-1-3
図版出所
大貫 1993