月のピラミッド、太陽のピラミッド、
死者の通り


●月のピラミッド
 高さ46m,底辺150m×140mの「月のピラミッド」は、四角錐の形をしており、当時は頂上部分に神殿があったと考えられている(図3-2-1)。正面にアドサダと呼ばれる付属基壇がある。高さは、「太陽のピラミッド」より低いが、「月のピラミッド」は高い土地に建設されたので両者は同じ高さに見える。「月のピラミッド」は、都市の南北の中心軸である「死者の通り」の軸上にある唯一の建造物で、その延長上には聖なる山であるセロ・ゴルドの頂上と重なる。
 「月のピラミッド」の南側には、「月の広場」があり、その西側には「ケツァルマリポーサの神殿」、「ケツァルパパロトルの神殿」、「ジャガーの神殿」が修復されている。
  1998年より、愛知県立大学杉山教授を団長する「月のピラミッド」発掘調査が行なわれ数多くの新しい事実が明らかになった(新大陸考古学講座、第4回講座で説明)。
図3-2-1



●太陽のピラミッド
 高さ65m、底辺一辺225mの「太陽のピラミッド」は、「月のピラミッド」と同様に四角錐の形をしており、当時はその頂上に神殿があった(図3-2-2、左手の建造物)。このピラミッドは、当時メソアメリカで最大の建造物であった。太陽のピラミッドは、西側を向いており太陽はちょうどピラミッドの正面に沈む。
 1906年にレオポルド・バトレスにより大規模な修復のための調査が開始した。この修復のための調査は、メキシコ政府の政治的動機により行なわれたものであり修復も正確なものではなかった。1960 年以降のレネ・ミリョンによるテオティワカン・マッピング・プロジェクトによるピット発掘とロバート・スミスによるトレンチ発掘による成果をみると「太陽のピラミッド」はサクアリ期に建造され、次のミカオトリ期に建て替えが一度行なわれ現在の高さになったと考えられている。
 1970年代の初頭、ピラミッドの階段の一番下にある入り口から100m程延びて、ピラミッドのほぼ中心部に達している洞窟が発見された。壁が整えられ、天井が作られている部分があるのでテオティワカン時代に儀式に使われたと考えられている。しかし、メキシコ人の考古学者であるリンダ・マンサニージャは、「テオティワカンの建造物の建築用の石を採取するために掘った後にできた人工的な洞窟である」と解釈している。
図3-2-2
 図3-2-2は、「月のピラミッド」から南側を見た様子である。手前に「月の広場」を取り囲む建造物、左手に「太陽のピラミッド」、右手に「死者の通り」とその通りに面して造られた建造物が見られる。


●死者の通り
 この通りは、真北より15度25分東に傾き、長さ約4km、幅45mの都市のメインストリートであり、都市の南北の中心軸である(図3-2-2、右手の通り)。東西の中心軸は、「太陽のピラミッド」の近くを起点に、西の地平線上の地点まで伸びる。「太陽のピラミッド」から西側3kmの地点には、「都市の西側の端」を示すと考えられている十字の二重円を岩に刻み込んだ彫刻も見られる。「死者の通り」は、南から北側に向かって傾斜がつけられている(北側が高い)。「死者の通り」を南側から「月のピラミッド」に向かって歩くと、聖なる山であるセロ・ゴルドが徐々に「月のピラミッド」に隠れてゆく光景を見る事ができる。



●その他の建造物
 「死者の通り」に沿って、多くの神殿が建設された。この神殿の基壇部分は、写真3に見られるテオティワカンの典型的な建築様式であるタルー・タブレロ様式で作られた。タルー・タブレロ様式とは、垂直の壁(タブレロ)と斜の壁(タルー)を組み合わせて基壇部分を作る建築様式である(図3-2- 3)。
 タルー・タブレロ様式は、都市建設がはじまったサクワリ期からあった様式ではなく次のミカオトリ期に出現したと考えられている。テオティワカンの影響が及んだコパン遺跡やティカル遺跡にもタルー・タブレロ様式の建造物がある。
図3-2-3