マヤ文明概略
●マヤの不思議 | |
16世紀以降、密林の中で発見された古代マヤ文明の遺跡は長い間大きな謎と言われてきた。大河の流域で発展した四大文明とは異なりマヤ文明の巨大な石造建造物は熱帯雨林の中に作られ、また9世紀から10世紀にかけて突然これらの石造建造物は放棄される。 また、古代マヤの人々は、石器時代の技術しか持っていなかったが、ゼロの概念や天体観測に基づくカレンダーの作成など突出した知識を持っていた。さらに、古代マヤの人々が石彫や土器に描いた図像には、不思議な図像も見られる。図6-1-1は、マヤの土器に描かれた図像の一部であるが、「左手に現代の電卓のようなもの」を持っている。 このようなことから「マヤ=宇宙人起源説」などが生まれたが、20世紀からの科学的な調査によりマヤ文明の全体像も少しずつ解明されてきた。本講座では、荒唐無稽なマヤ=宇宙人起源説やグラハム・ハンコックらに見られるジャーナリズム的な視点からではなく、アカデミズムの視点でマヤ文明の謎に迫りたいと思う。 |
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図6-1-1 → |
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●地理区分 | ||
マヤ文明が栄えた地域は、大きく高地と低地に分類される。 高地は、メキシコのチアパスからグァテマラにかけての南部高地で(図6-1-2の紫の部分)標高300m 以上の地域である。チアパス南東から中央アメリカに至っては4000m以上の火山帯がある。 低地は、ウスマシンタ側流域の南部低地(図6- 1- 2の黄色の部分)とグァテマラのペテン地域を中心とする中部低地図(6-1-2のピンクの部分)、ユカタン半島の北部の北部低地(図6-1-2の水色の部分)の3つの細分される。南部低地、中部低地は年間平均気温25度くらいの熱帯雨林地域である。北部低地は、高温であるが乾燥した地域であり、石灰岩質の地層のため地表を流れる川はなく、地下水や地下水脈の地上部分が陥没してできた泉(セノテ)が重要な水資源である。 |
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図6-1-2 ↓ |
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●時代区分 | ||
メソアメリカ全体の時代区分に関しては、前期の第1回目の講座で説明した。マヤ文明は、アステカ王国のように統一された王国でなく都市国家の集合体がマヤ文明であるために、それぞれの都市国家により居住期間が異なる。 例えば、コパンでは、紀元前2000年ごろから人が住み始めるが、マヤ的王朝が出現するのは紀元後 5世紀の前半であり、ティカルなどでも同様に紀元前1000年ごろから人が住み始めるが、マヤ的王朝が開始するのが紀元後1世紀ごろ(より多くの情報があるのは紀元後4世紀後半ごろ)である。一般的にはマヤ文明では、紀元後300年から 900年後までを古典期マヤ、紀元後900年から1500 年ごろまでを後古典期マヤと区別している。 古典期マヤ時代に栄えた多くの都市国家は、10世紀ごろに北部低地の一部を除き崩壊する。北部低地では、その後チチェン・イツァーなどメキシコ中央高地のトルテカの影響を受けたマヤ文明が存続し、 15世紀にマヤパンが崩壊した後は、小さな王国が 18ほど存在していた。スペイン人がユカタンで出会ったマヤの人々は、このような小さな王国に住む人々であった。一方、アステカではモクテスマU世を中心とする強大な王国が築かれておりスペイン人はアステカ王国と戦いながら征服活動を行った。 |
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図6-1-3 ↓ |
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