コパン王朝史(初代〜9代)
●コパンの歴代の王 | ||
紀元後5世紀の初頭、キニチ・ヤシュ・クック・モ王がコパン王朝を創設した後、9世紀にその王朝が崩壊するまで16人の王がいた。16代目のヤシュ・パサフ・チャン・ヨアート王は、16人の王を祭壇に刻み、初代の王から王権のシンボルである杖を受け取る場面を石に刻んだ(図8-1-1)。歴代の王の事績に関しては、故リンダ・シリーをはじめとする多くの碑文学者が研究を行なっており、日々新しい解釈がなされている。この講座では、最近出版されたマーティン&グルーブの研究書(Martin and Grube 2000)にもとづき解説を加えたい。 | ||
1代目:キニチ・ヤシュ・クック・モ(K'nichi Yax-K'uk'
Mo) 誕生(不明)、即位(不明)、死亡(不明)、在位(426-437頃) 2代目:キニチ・ポポル・ホル (K'inich Popol Hol) 誕生(不明)、即位(不明)、死亡(不明)、在位(〜437〜) 父:キニチ・ヤシュ・クック・モ 3代目:名前不明 誕生(不明)、即位(不明)、死亡(不明)、在位(455年頃) 4代目:ク・イシュ(Cu Ix) 誕生(不明)、即位(不明)、死亡(不明)、在位(465年頃) 5代目:名前不明 誕生(不明)、即位(不明)、死亡(不明)、在位(475年頃) 6代目:名前不明 誕生(不明)、即位(不明)、死亡(不明)、在位(485年頃) 7代目:「睡蓮ジャガー」(ニックネーム) 誕生(不明)、即位(不明)、死亡(不明)、在位(〜504 -524年〜) 8代目:名前不明 誕生(不明)、即位(不明)、死亡(不明)、在位(〜551年) 9代目:名前不明 誕生(不明)、即位(不明)、死亡(不明)、在位(551-553年) 10代目:「月ジャガー」(ニックネーム) 誕生(不明)、即位(553)、死亡(不明)、在位(553-578年) 11代目:ブッ・チャン (Butz' Chan) 誕生(563年)、即位(578年)、死亡(628年)、在位(578-628年) 12代目:「煙イミシュ」(ニックネーム) 誕生(不明)、即位(628年)、死亡(695年)、在位(628-695年) 13代目:ワシャクラフーン・ウバーフ・カーウィル (Waxaklajuun Ub'aah K'awiil) 誕生(不明)、即位(695年)、死亡(738年)、在位(695-738年) 父:「煙イミシュ」? 14代目:カック・ホプラフ・チャン・カウィール (K'ak' Joplaj Chan K'awiil) 誕生(不明)、即位(738年)、死亡(749年)、在位(738-749年) 15代目:カック・イピヤフ・チャン・カウィール (K'ak' Yipyaj Chan K'awiil) 誕生(不明)、即位(749年)、死亡(不明)、在位(749-761年〜) 父:カック・ホプラフ・チャン・カウィール 16代目:ヤシュ・パサフ・チャン・ヨアート (Yax Pasaj Chan Yoaat) 誕生(不明)、即位(763年)、死亡(不明)、在位(763-810年〜) 母:チャク・ニク・イェ・ショーク(パレンケの王妃) ウキト・トーク (Ukit Took) 誕生(不明)、即位(822年)、死亡(不明)、在位(822年) |
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図8-1-1 ↓ |
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●キニチ・ヤシュ・クック・モ (偉大な太陽・最初のケツァル・コンゴウインコウ王) (注1参照) |
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コパン王朝の創始者はキニチ・ヤシュ・クック・モと呼ばれる人物である。
1989年からのShareを中心とするペンシルバニア大学のアクロポリスの調査により初代王や王妃の墓が発見され考古学的からも5世紀前半のコパンの様相もわかってきた(注2参照)。 一方、祭壇Qの上面に彫られた碑文では、コパン王朝の開始について次のように述べられている。「426年9月15日、当時まだクック・モ・アハウと呼ばれていた初代王が王位に就き、即位の日から 153日後にコパンに到着した」すなわちコパンの初代王は、コパンとは異なる地で即位し、コパンに到着したことが示されている。 |
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キニチ・ヤシュ・クック・モは何処から来たのだろうか? Shareによって発掘された神殿16(第7回講座、図7-4-1、7-4-2参照)の最初の建造物はフナル神殿と呼ばれ、それはタルー・タブレロ様式の建造物であり、王妃が埋葬されたマルガリータ神殿からは、「タズラー」と呼ばれるテオティワカン様式の三足土器が出土し、その土器にはタルー・タブレロ様式の神殿が描かれている。このようなことから、コパンの初代王は、メキシコ高地(テオティワカン)と関係のある人物と考えられている。最近行なわれた、キニチ・ヤシュ・クック・モのDNA鑑定によるとコパンの土着の人々とは共通するところはなかった。 |
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(注1) ■キニチ→偉大な太陽、ヤシュ→最初の、クック→ ケツゥアル、モ→コンゴウインコウ (注2) ■Sharerの調査 1989年:Sharer(ペンシルバニア大学調査団)がアクロポリスの調査を開始する。 1992年:マルガリータ神殿の発見(最下層に近い所) 1993年5月:マルガリータ神殿の内部から王墓発見(女性:初代王の妃)、 神殿の碑文にヤシュ・クック・モーの名前 1995年3ー4月:マルガリータ神殿の正面からケッツァル鳥(クック)と金剛イン コ(モー)が絡み合った図像のレリーフを発見。ヤシュ・クック・モーを祭 った神殿と考える。 1995年〜97年:マルガリータ神殿の下から古い太陽神の彫刻を持つジェ・ナル神殿が発見。また、ジェ・ナル神殿内部のフナルと呼ばれるタルー・タブレロ様式持つ神殿から墓が発見。墓には、右の下腕が骨折、変形した王族の男性が埋葬(祭壇Qの彫刻で建国者の右腕は盾で隠されてるのはこれが原因か?)。 |
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図8-1-2 → |
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●キニチ・ポポル・ホル | |
437年ごろキニチ・ヤシュ・クック・モが死去した後、コパンの王位は彼の息子であるキニチ・ポポル・ホルが受け継いだ。彼は、父親のキニチ・ヤシュ・クック・モを崇拝するためにフナル神殿を覆うようにジェ・ナル神殿を建築した。この神殿の基壇の正面には、太陽神の大きな仮面が浮き彫りにされ、赤く塗られていた。さらにその上には、マルガリータ神殿が作られた。マルガリータ神殿には、ケツァル(クック)とコンゴウインコウ(モ)が絡み合う姿が刻まれている。そして、年老いた女性が埋葬されていた。彼女は、キニチ・ヤシュ・クック・モの未亡人であり、キニチ・ポポル・ホルの生母であった。人骨のDNA分析によると、この女性がコパンの在地の女性であることがわかっている。従って、外来者であるキニチ・ヤシュ・クック・モが在地の豪族と婚姻関係を結ぶことによって権力基盤を固めたと考えられている。この場所における神殿の増改築はその後400年にわたって続き、10代目の王はロサ・リラ神殿を、16代目の王は神殿16号を築き、この地は王朝創始者への崇拝の場所となった。 | |
神殿26(第7回講座、図7-4-1、7-4-2および図 8- 2-2参照)の地点でもこの時期の神殿がある。神殿 26の最下層部にあるヤシュ神殿は、モット・モット神殿に覆われている。この神殿が建てられる前にある人物が埋葬された。1993年8月、26号神殿の内部調査を行っていたFashは、墓の蓋石である丸いモニュメントを発見した(図8-1-3)。この丸い石版の下の墓の中からは、3人の男性の頭蓋骨と共にシャーマンと考えられる女性の人骨、水晶や水銀、そしてこの儀礼で殺されたと考えられる角の生えた鹿やピューマの骨などが発見された。丸い蓋石(「モット・モットと呼ばれている」には、左側に初代王「キニチ・ヤシュ・クック・モ」、右側に2代目の「キニチ・ポポル・ホル」が刻まれ、中央のマヤ文字には、435年を示す暦とともに最初の2人の王がこのシャーマンと建国を祝い、鹿を縛って生け贄にする儀式が行われたことが記されていた。墓から出土した副葬品もこの石板に記されたのと同じ儀式がこの場で行なわれたことを示していた。 | |
●3代目の王〜9代目の王まで 3代王〜9代王については、あまりわかっていない。どの遺跡でも、初期の神殿や石碑は破壊され新しい建造物を作るときに再利用される。4代王「ク・イッシュ」は、モット・モット神殿を覆って作られた神殿26の下層部にあるパパガヨ神殿(図 8- 2-2参照)の建築もしくは改築を行なった人物である。また、7代王の「睡蓮ジャガー」は、ヤシュ・クック・モ王朝の系譜の7代目であることを名乗った人物で、この王は534年を日付をもつカラコル遺跡(ベリーズ)の石碑16にも王の名前が記されている。 |
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図8-1-3 ↓ |
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