コパン王朝史(13代)
●ワシャクラフン・ウバーフ・カウィール(13代) | |
695年に即位したコパン13代王は、ワシャクラフン・ウバーフ・カウィール(「18のカウィール神の像」の意味)である。13代王の43年間の治世の間、コパンでは文化と芸術の面で最盛期に達した。特に石彫では、コパン独特の高浮き彫り技法を使った石碑8本が建立され、また土器ではコパドールと呼ばれる美しい彩色土器が作られた。古代マヤにおける芸術は、王家の権威を維持し、強化するためのものでもあった。コパンでは戦士としての王を強調するのは避け、自ら神としての側面を強調すること、すなわち地上の人間世界と神々の世界である冥界を媒介するもとのしての王の役割を強調した。 政治的には、724年にカック・ティリウ・チャン・ヨアートを隣国のキリグァの王につけた。キリグァはグアテマラのモタグァ川の要衝の地にある都市国家で、これによりコパンがこの地域を支配下に入れたことを意味する。 731年に建立された石碑A(図8-3-1)には、正面に13代王の肖像が刻まれ、側面や背面にはマヤ文字のテキストが刻まれている。石碑Aには、ティカル、カラクムル、パレンケという当時のマヤの世界の3つの大国の紋章文字とコパンの紋章文字が刻まれ(図8-3-2)、さらに東西南北の4つの方位が刻まれている。この意味は、この時期に3つの大国から実際にコパンに訪問者があったのか、あるいは東西南北の4方位を4つの国に重ね合わせてマヤの世界観を象徴的に表したものなのか、まだ明らかになっていない。 |
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図8-3-2 → |
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●738年の出来事 | |
738年1月6日、新しい球戯場が完成した(第7回講座、図7-4-1、7-4-2参照)。738年4月、ワシャクラフン・ウバーフ・カウィール王は、それまでコパンに従属していたキリグァ王のカック・ティリウ・チャン・ヨアート王によって捉えられ、6日後に「斬首」された。どのような経緯でワシャクラフン・ウバーフ・カウィール王が捉えられたかについては分かっていないが、シーリーは、「738年1月6日に完成したボール・コート用の生け贄を捕獲するためにキリグァに戦争に出かけたが、逆に捕らえられた」と解釈した。 コパンにとってこの不名誉な出来事は、何年もあとになって碑文に記されることとなる。コパンの碑文では、王は「槍と楯」によって命を落としたとされる。キリグァの碑文とは異なりコパンではワシャクラフン・ウバーフ・カウィール王は「処刑」されたのではなく、戦場で名誉の戦死を遂げたこととなっている。コパン王朝は最盛期にあった13代王の時期に突然破局を迎えることとなった。 |
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図8-3-2 → |
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●芸術の開花 | ||
ワシャクラフン・ウバーフ・カウィール王時代に、コパンでは芸術活動がピークに達したことは前述したが、特に8本の石碑が711年〜736年の間にメイングループに建立され、これらの石碑の正面にはすべてワシャクラフン・ウバーフ・カウィール王の肖像が刻まれている。 土器では、400年から700年の間(コパンではアクビと呼ばれる時期)は、精製土器ではテオティワカン的な三脚付シリンダー状土器が多かったが、 700年以降になると人物などを描いた多彩色土器が出現する(図8-3-3)。コパンの多彩色土器は、コパドールと呼ばれその赤の顔料に特徴がある。 |
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図8-3-3 ↓ |
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